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転職ビッグバン
転職で適格な判断、決定が出来る様に!!外資系企業への転職を身近なものに!
リストラなんてぶっ飛ばせ!! この本をホームヘッドハンターとしてご活用下さい!


 
出版社 山下出版
定価 1,400円
著者 伊地知峻六
(潟_イナミックサーチ研究所
代表取締役)

−目次−

第一章 転職の世界とヘッドハンティング
第二章 インターネットによる転職
第三章 転職に成功する為のノウハウ
第四章 外資系企業の実情分析と転職
第五章 転職の世界で見る日本人の真の姿
第六章 七転び八起きの筆者の転職奮闘記
第七章 男一匹、一度は起業家を目指せ!
     サラリーマンのままで一生を終わるな!!

あとがき

 
 
 

 


転 職 ビ ッ グ バ ン

第6章「七転び八起きの筆者の転職奮闘記」

■ 第1項 「ヨーロッパ駐在からの帰国と最初の転職」
■ 第2項 「営業での再出発」
■ 第3項 「二回目の転職」
■ 第4項 「三回目の転職」
■ 第5項 「四回目の転職」
■ 第6項 「五回目の転職」
■ 第7項 「法廷での争い」
■ 第8項 「人材コンサルタント会社との接触」
■ 第9項 「人材コンサルタントとしてスタート」
■ 第10項 「自分の転職を振り返って」

筆者は大学卒業後、七社を体験し、八社目で起業した。

体験した会社のうち、三杜は外資系企業である。七社のうち四社は解雇もしくは事実上の解雇だった。うち一社はあまりにも理不尽な解雇であったため、裁判に訴え勝訴した。

初めて転職し入社した日系大企業では、まわりの社員の徹底したイジメにあい、重度の心身症まで患うこととなった。

過去の転職経験は振り返るのも忌まわしいものだが、筆者はあえてここに記述することとした。しかし、決して自分の転職経験を浪花節調に涙ながらに聞いてほしいとは思わない。今日、人材紹介業を営むにあたり、失業し、必死に再就職活動を行っておられる多くの方々や、理不尽な突然の解雇で失意呆然としておられる方々に何らかの行動指針としてのヒントを提供できれば幸いと考えてのことである。同時に、これから転職の荒波に向かって船出しようとしておられる方々に、本当の転職について知ってほしいためでもある。

巷間、多くの転職成功例を見聞きする。しかし、一人の成功の裏にはその何倍もの、いや何十倍もの失敗のドラマがあるのだ。

筆者の転職は、数多くの転職経験者の中で決して際立った異常な例ではない。ごくごくありふれた普通の転職例なのである。

まじめに仕事し、いい評価を得ようと努力すればするだけ矛盾が出てくるのが転職であり、サラリーマンの世界なのだ。それを七回の転職で証明した実例に過ぎないのである。


 

第1項より
「ヨーロッパ駐在からの帰国と最初の転職」


 昭和48年7月中旬、田中角栄首相が列島改造論をぶち上げ、トイレットペーパーの買い占めが盛んだった頃、筆者は五年半のヨーロッパ駐在を終え、清涼なストックホルムから酷暑の東京に家族とともに帰国した。

 この頃は、田中内閣の野放図な景気刺激策で日本国中の企業が業績を大幅に上昇させていた頃であるが、筆者の勤務していた企業は経営者の経営手腕の欠如もあり大幅な赤字に転落していた。

 帰国前に、すでに会社の業績悪化を察知していた筆者は将来をいろいろと模索し始めていた。ヨーロッパでは分析装置の技術者として、北欧や当時の共産圏の東欧の国々を転々と移動しながら仕事していた。

 仕事の内容は、展示会への出展や客先との技術折衝、製品の納品、サービス等であったが、製品の品質は極端に悪く、普通にセットアップし、スイッチを入れてもまず動かない代物であった。このように動かないものをよく外国まで持っていったものと思うが、当時の日本の理科学器械のレベルは大方このようなものであった。

 筆者は東京オリンピックの直後の頃、朝日薪聞の天声人語に「日本の技術は新幹線と電子顕微鏡に代表される」という記事があったことをいまでも鮮明に記憶している。

 新幹線はさておき、電子顕微鏡等の理科学器械は故障が多発し、サービス技術者がだましだまし、どうにか動かしているといっても過言ではなかった。

 このような製品でも、営業とチームを組んで東欧、北欧に必死に売り込みを行っていたのである。そしてこのような必死の努力が少しずつ実を結び、売り上げが上昇していった。

 当時の日本の産業の実力は、このような理科学器械に限らず、工業製品一般についても同様で、性能の劣るものでも食うために必死にセールス活動を行わざるをえなかったのである。

 そして、それらの経験をもとに少しずつ改良を重ねて、現在の日本の産業の成果となったのである。

 帰国前の2年間は、コペンハーゲン、そしてストックホルム駐在となっていたが、技術サービスだけではなく自分から進んで営業活動も行っていった。初めは慣れない営業活動であったが、ときには飛び込みセールス等を行い、自分自身で製品を売り込み、その後のサービス修理まで一人で行っていった。

 実績が少しずつ上がるにつれ、営業活動がとても面白くなっていった。多くの人々と接触する営業の経験を積むにつれ、転職するなら技術を活かした上での営業関連の仕事をしたいと思い、それによって将来を切り開いていきたいと少しずつ考え始めていた。

 帰国してみると会社内はガタついており、同期で入社した同じ部内の大卒者はすべて退職していた。筆者が欧州駐在中に入社してきた者がすでに管理職になっており、まるで、"いま浦島太郎"のようであった。経営陣の怠慢もあり、社内のモラルは大きく低下していた。

 経営陣に確固たる経営方針があり、社内のモラルが低下していなければ、会社がたとえ大幅赤字でも、そのうち業績を向上させることができると思っていた。もしそうであれば、筆者もたとえ給料がダウンしても転職は思いとどまっていたであろう。

 しかしそのモラル、士気が大幅に低下した組織では、一個人がどんなに頑張つてみてもどうしようもない。そこで熟慮の上転職を決意し、新聞の求人広告に目を通す毎日が続いた。

 この会社は筆者の転職後3カ月して希望退職を募り、2800名の従業員のうち1000名が退職していった。年輩者は事実上の解雇であった。

 このとき同期入社の大卒社員97名のうち約半数が退社していったが、大方はやる気のある実力派の者たちである。

 会社が希望退職を募るとまず優秀な者から先に辞めていく。あとに残る者は実力あるいは決断力に欠ける者になりがちであり、企業の実績はさらに悪化してゆく、このことは昨今のリストラでもあてはまる法則である。したがって企業が希望退職を行う場合、指名解雇も同時に行うケースが多い。また、解雇を同時に行う決断力がなければリストラによる大幅な戦力低下の弊害が生じてしまう。

 当時は人材紹介会社は、まだ数社程度が産声を上げたばかりで、転職は公募が主体であった。約10社に応募し、そのうち約半数と面接し、最初に内定した大手光学機器メーカーに入杜することとなった。

 この転職のとき、選択の幅をもう少し広げ、別に面接を進めていたところもよく比較検討し、自分に最良の企業をじっくり探すべきであったと思う。

 

 

第2項より
「営業での再出発」


 大手光学機器メーカーD社に公募で人社したとき、タイミングよく発売されたばかりの大型赤外線装置の販売を担当することとなった。

 筆者はまず競合メーカーの製品の性能や過去の販売台数、将来の市場規模等を調査し、さらにカタログ作りを手始めに、雑誌広告、展示会への出品、それに総数一万通を超すダイレクトメールを送り、日本全国への営業活動を始めていった。

 外国製品を含め、数杜の先行する競合メーカーはすでに市場を支配しており、新製品のぽずの当社の製品は性能もかなり劣っていて、デザインまで陳腐化していた。よくこんな製品を任されたものである。しかし泣き言を言っても仕方ない。

 筆者はまず、代理店任せの販売方針を直接我々の手で売る直販方式に切り換えた。そして、北は北海道旭川から南は鹿児島沖の薩摩喜界ヶ島まで製品のデモをしてまわり、ときには二週間ぶっ通しで帰宅しないこともあった。初めての日本での営業活動で、激しく厳しい中にも楽しさがあり、無我夢中で仕事に没頭していった。

 努力の甲斐あって、競合数社の中で年間販売台数二位にまで引き上げることができた。それまでの一年半の販売期間中に、課長以下計四名の課の販売実績22台のうち、実に20台までも一人で売りまくった。

 これが普通の会杜なら、特別賞か社長賞でも、もらっておかしくない実績であろう。しかしながら、これだけ実績を上げていながら、昇進、昇格、ボーナス等の査定はいつも最低であった。

 いま思うに、これは大企業の中での中途採用の宿命なのであろう。あるいは仕事に没頭し過ぎて、社内営業を疎かにしたせいでもあったのだろう。思い出されるのは、入社前の常務取締役人事部長の最終面接である。彼は「我が杜では中途採用者の差別はまったくない」と胸を張って言明した。それを聞いて少しは転職の不安が解消したのだが、その言葉がこの頃白々しく思えるようになった。

 この会社で中途採用者が入社のときからすでに差別されていることは入社の翌日にはわかっていた。

 同じ年輩のストレート入杜組はすでに課長代理になっているのに、中途人社の筆者はその二階級下であった。それでも入社のとき、課長には「君は破格の待遇なんだぞ」と言われたものである。

 日系企業では前述のように、すでに入社のときに、半数の企業がオフィシャルに中途採用者の差別を行っている。さらに入社後も、昇進・昇格で陰に陽に差別される。これは企業の中だけに限ったことではない。日本のいわゆるムラ社会では、どのような組織、集団の中でも、新参者を差別しようとする強い意識がある。

 筆者は数年間の海外生活を経験し、また外資系企業の中で外国人と一緒に仕事した体験を通じ、日本人にはこの差別意識がとくに強いように思った。日本人の国際感覚はこの辺の低レベルの次元から改革してゆかねばならない。

 他人の正当な評価、実力をありのままに受け入れようとしない偏狭な島国根性のままでは、いずれは国際杜会から取り残されてしまうであろう。

 さて、総計100キロもの重さの大型赤外線装置のデモを何回も行い、某中央病院で十数台の大型商談をまとめてきたときのことである。これを大喜びで課長に報告したのだが、筆者は翌日には、その大型商談の担当からはずされてしまった。その上に、この大型商談は、その後競合メーカーに発注を奪われてしまうというオマケまでついてしまうのである。

 大企業の中途採用者に対する評価はこの程度のものなのだが、このことを割り切って、仕事の実績より上司へのゴマスリに精を出すべきだったのだが、そのようなバカくさいことにエネルギーを消費することはどうしてもやりたくなかったのである。

 そうこうしているうちに、この会社は赤字を出し、東京株式市場の信用銘柄から転落した。その影響で赤外線装置販売課が消滅し、課長は飛ばされ、筆者は隣の販売課に一人移籍することとなった。課は消滅したが、装置の販売そのものは筆者一人で続けるというものであった。

 しかし、運の悪いことにこの新しい課の課長は、筆者の前の課長とは仲が悪かった。その課長からは、"中途採用""出身大学の違い""大嫌いな前の課長から押し付けられたドロップアウト組"という前科三犯扱いを受けたのである。

 この新しい課に移って間もなく、工場から来た若い年下の営業の新参者を筆者の上司にすえることまでやられた。さすがにこれだけは我慢ならず猛反発したのだが、この猛反発は裏目に出た。

 この頃から、さすがにタフを白負する筆者も、母の悲惨な死も重なって、精神的に疲労困憊していった。

 大手町の天井の低い地下道を歩いていた昼過ぎ、急に激しい恐怖感、圧迫感に襲われ、逃げ場を求めて必死になって走っていった。無我夢中で日比谷公園に辿り着き、緑の中のベンチで二時間もかけて気持ちを鎮め、やっと会社へ戻っていった。

 その後、半年ぐらいして赤外線装置の販売まで会社の指示で停止することになるのだが、その頃は新型の高性能装置の開発が終盤に近付いていた頃であり、この新型機で一気に市場を席巻しようと期待をかけていた時期であったのは皮肉だった。

 ここで、筆者の担当が同じ課の半導体製造装置マスクアライナーへと移った。しかしながら、課長を始めとした古参兵の筆者に対するイジメはさらに激しくなっていった。

 このように集団による長期のイジメを受けていると、どんなにタフな人間でも、しまいにはまいってしまう。自分自身のコントロールができなくなり、専門医による治療が必要となるが、ついにそのレベルにまでなってしまった。満員電車の混雑まで耐えられなくなり、散髪屋のカミソリにまで恐怖を感じるようになってしまったのである。

 しかし、筆者は必死で頑張った。家族のためにもここで負けてなるものかと自分で自分を励まし、できるだけ気持を強く持つようにして、会杜や家族にこの精神的動揺を気付かれないように注意した。精神神経科の医師に「アトラキシン」を処方してもらうと同時に、自分で神経症治療の本を読んだり、同じような病気を患った夏目漱石の心身症治療の経験談を読んでみたり、自己催眠を行ってみたり、ありとあらゆることをやってみた。

 それでも精神的に疲労の極に達していったのだが、このあたりまで来ると、さすがに工場側からは口添えしてくれる人も少しは出てきて、筆者の実績もほんのわずかだが評価され出した。

 こんな会杜でも、少しは白浄能力があったということだろう。課長代理に昇進し、大阪以西担当の責任者となり、大阪営業所へ転出した。

 話は変わるが、取引業者との間で業務横領まがいの操作を行っていた課長は、週末になると韓国のウォーカーヒルにたびたび賭博に出かけていたものである。この事実が表に出れば、悪くすればクビになるところだが、この課長は強力な学閥と要領で順調に出世し、その後、この会社の常務取締役へと昇り詰めることとなる。

 サラリーマンとは、えてしてこのようなものなのである。

 

 

第3項より
「二回目の転職」


 課長から九州転勤の内示を受けたのを機会に、この大手光学機器メーカーを退社する決意をした。たまたま親戚が繊維、インテリア関係の商社を営んでおり、私の苦境を察して、誘ってくれたのであった。まったく畑違いであつたが、自分の誇りやプライドだけでなく精神までもずたずたに傷付けられ、そのまま働き続ける気はまったくなかった。

 会社に辞表を出すのは二回目だったが、サラリーマンにとって会社に辞表を出すときほど晴れ晴れとすることはない。もちろん、そうでない人もいよう苦悶の中で渋々辞表を出す人もいるかもしれない。筆者は、その後も何回か転職することになるが、会社に辞表を出すときほど痛快に感じるときはなかった。辞表を出したのち、新しい職場でスタートするまでの間は、「辞表を出した」という、何とも一言えない自然とわき出る開放感みたいなものを感じたものである。D社での経験は自分を相当にタフにしたようだ。次の会社がどんな会社でも、どんなことが起ころうとも「さあドンと来い」という気持ちであった。

 さて、今度の繊維関係の業界は、元来大阪が本場で、数多くの中小零細企業が各々の分野で持ちつ持たれつのグループ作りをしている。それはまだ日本風の徒弟制度の風習が色濃く残る業界である。

 朝7時に集合し、夜11時以降まで、休日もほとんどない働きづめであり、かつまた一日21時間以上働かなければ利益が出ない業界だった。そんな繊維業界でなければ学ぶことのできない貴重な体験も筆者はした。そして同時に多くのノウハウも身に付けた。

 このとき学んだノウハウは、自分で会社を設立したあとで非常に役立っている。

 この会社にいた三年間、筆者は一冊の本を読む暇もなく、またテレビを見たり、起きている子供の顔もほとんど見ることがない毎日であった。前の大手光学機器メーカーから一緒に連れてきた心身症はどこかに吹き飛んでしまった。

 営業マン約60名の中で、40歳の筆者は一番年輩であり、体力には相当白信はあったものの、20代、30代の自衛隊出身等の他の営業マンとは比較にならない。体力の限界まで働く毎日であった。電話帳を見ながら、自動車に商品見本を積んで一日約30件の飛び込み営業を行い、新規取引先を若い営業マン以上に開拓していった。しかし一日16時間労働ではこの先せいぜい数年しかもたないだろう。激しい仕事を一日一日こなしながら自分の将来を考えていった。

 筆者の親戚である社長は実際はリタイアしており、筆者より四歳年下の専務が会社を運営していたが、実はこの専務は北九州小倉の暴力団組長を父親に持つ男で、このことは入社まで社長から知らされていなかった。そしてこの男が、少しずつ実績を上げてゆく筆者に対し、いやがらせをするようになってきた。そして、半年もたつと徹底的なイジメとなっていった。なにしろ周囲の者が筆者と話しただけでにらみ付ける始末であった。

 振り返って、前の大手光学機器メーカーの常務取締役人事部長の「わが社には中途採用者の差別はまったくない」という話といい、親戚の社長が「暴力団組長を親に持つ専務」の話を伏せていたことといい、ウソでも「入社させてしまえばこっちのもの」という、出世、金儲け万能主義には、筆者はいつも抵抗を感じていた。

 しかし同時に、企業の経営陣とは、どこの会社に行ってもこの程度のレベルのものであろうとの認識も持っていた。世の中に青い鳥は存在しない。

 それならば、これからどのように自分の将来設計を立てていくべきか、じっくり思案してみた。その結果、一つの結論として、いずれはこの繊維問屋は辞めるべきで、どうせ辞めるなら早いほうがいいと思うようになった。

 


第4項より
「三回目の転職」


 ドイツ系の半導体結晶材料シリコンウェハーメーカーの応用技術者の入社試験にパスし、新しいスタートを切った。

 まず、数冊の半導体関係の本を買い求め、毎日、暇を見つけてむさぼり読み、忘れかけていた知識を呼び戻した。入社してすぐにドイツの工場へ四ヶ月の研修に行った。もちろん外資系企業の勤務は初めてであったが、五年半の欧州駐在経験もあり、外資系企業とはどのようなところか十分知っているつもりであった。

 しかし、これらの予備知識と現実はまったくかけ離れていた。

 普段、我々が日本で付き合う外国人、とりわけ欧米人は、表面上非常に礼儀正しく親切である。しかし、会社組織の中では欧米人はガラっと態度を変え、表面はにこやかでも、極めてプライドが高く、自意識過剰である。日本人の言う事など聞いていられるか!我々は欧米人なんだぞ!格が上なんだぞ!という態度が随所に出てくる。

 ただ、このような思い上がった態度は国民性にもよるようだ。ヨーロッパではドイツ人がもっとも強く、次にイギリス人、そしてフランス人と続く。かつて一年余りを駐在したスウェーデンではあまり感じなかった。ビジネスをやる上で、このような思い上がった態度は困りものである。客先の方では、欧米人がプライドが高くても、特別に品質や納期、サービス面で大目に見てくれることは決してない。

 ビジネスをやる上では、あくまで客先を主体に動かねば、厳しい競争を勝ち抜く事はできない。とくに日本市場ではこのことが重要である。

 日本における外資系企業の日本人社員は、この欧米人のプライド、反応の悪さに苦しめられる事になる。しかし、このようなとき、日本人社員は決して感情を表に出してはいけない。

 彼らの高圧的態度は生活習慣からきている面もあり、我々日本人のビジネス習慣があまりにも性急過ぎて、かつ客先の要求が必要以上にオーバースペックであることも考える必要がある。客先から製品に対するクレームがあった場合でも、彼らのフィロソフィー、ものの考え方の枠組みを超えて改善を要請したり、主張したりしてはいけない。平たく言えば、「ドイツ人に言われるとおりにやりなさい。その範囲でのみ一生懸命やりなさい」ということである。まかり間違っても、「日本の製品のほうが優秀だからそのとおりに作ってください」などと言ってはいけないわけだ。

 度重なる製品の不良発生に客が激怒したため、著者はいつものように現場の九州工場に出向いた。日本の競合製品よりはるかに低いレベルであるという客観的データを突きつけられ、ドイツから品質管理のディレクターを呼び、ともに再訪問した。しかし、再現性のある実験データに突きつけられ、製品の納入は停止される事となった。

 その後、客先の要請もあり、日本の技術担当責任者であった著者がドイツの工場へ行き、製品の品質管理チェックを行うことになり、三ヶ月にわたって品質管理(TQC)の指導および再検査を行い、そしてサンプルを納品した。結果は客先の好評を得るものとなった。ところが、このことが逆に著者の解雇へのプレリュードとなる。

 なんのことはない。日本からわざわざ東洋人がきて、製品の不良を説明した事がドイツ人のプライドを傷付けたのである。著者は技術担当からはずされるようになり、閑職に追いやられた。

 しかし、すぐに解雇にはならなかった。著者の長年の実績を見れば、ドイツ人もさすがにそこまでは出来なかったのである。ある日突然、ドイツ本社の技術開発担当のドクターから国際電話がかかってきた。彼は著者の行動や実績を高く評価しつつも「もう少しおとなしくしてドイツ人上司の意向を汲んで仕事をするように」と諭してきたのである。

 わざわざドイツから電話をくれるとは立派なものである。中にはまじめなドイツ人もいるものだ。

 さて、ここまでのストーリーは、外資系の会社ではごくごく普通にあることで、ときには日系企業でも、サラリーマン社会ではよくある話である。

問題はこれからあとである。

 この会社の日本人スタッフはまったくレベルが低くて、だらしがなかったのだ。私は彼らによって差別され、しまいには私の机は通路に出されてしまった。このような事を積極的にしてきたのはドイツ人ではなく、日本人であった。閑職で黙々と仕事をしている著者に対し、ただ単にドイツ人に気に入られようと何かと嫌がらせをし、最後に解雇の引導を渡してきたのは三人の無能な日本人”外資系ゴロ”であった。そしてこの三人は、著者に対する嫌がらせがドイツ人に気に入られ、昇進していった。

 これが外資系企業の典型的な姿であり、哀れな現実なのである。

 著者は、かつて東欧や北欧に駐在し、パリへもたびたび行った。そして現地のヨーロッパ人を中傷したり、あるいは上司である日本人に密告してきたりする低レベルの事態には一度も出くわすことはなかった。

 ところが、日本における外資系企業の日本人は、外国人上司の気に入られようとして、平気で他の日本人を中傷し、密告、足の引っ張り合いを行うのである。著者は、こんな低レベルな人間は世界中で日本人だけではないかとも思う。

 ヨーロッパの歴史は、異民族による自国の占領、それに対する闘い、開放、そして外国への侵攻と、闘いの繰り返しである。とりわけ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、当時のユーゴスラビアは、オスマントルコによる長年の支配を受け、その解放闘争の歴史が、今でも国民の脳裏に、まだ歴史的事実として多く残っており、このことが子々孫々なでかたりつがれている。

 他の西欧諸国でも同じようなことが言えるのである。このようなとき、自国民同士が中傷しあい、占領者に盲従していったら、その国の国民は永久に奴隷のままの扱いを受けた事であろう。

 一方、日本は太平洋戦争終結まで一度も外国人に占領されたことなく、今回の敗戦まで島国の中でのみ、日本人同士、中傷、密告、足の引っ張り合いを行い、事足りていたのである。明治維新の一時期を除いて、外国人占領者に対して力強く団結する必要などまったくなかったのである。島国である日本の特殊性、国民性が、いまの外資系企業の中に悪く反映されているように思う。

 著者はこの後も何回か転職を繰り返し、、現在人材紹介会社を営み、多くの外資系企業の実態を見ているが、

 日本人の脳裏に染み付いた権力者追従思想がある限り、外資系企業の日本人従業員は救われる事はないであろう。

 

 

第5項より
「四回目の転職」


筆者はドイツ系企業解雇直後に人材紹介会杜I杜の副社長M氏の紹介でアメリカ系測定器メーカーへ営業部長として入社した。

アメリカ系企業は初めてであり、心機一転、フレッシュな決意に燃えてスタートした。ところがM氏の説明や、インタビューした日系二世の杜長の言葉とは裏腹に、筆者の入社までの一年間に、日本人副社長を含めて現在の杜員数とほぼ同数の約三〇名の社員が何らかの理由で退職していた。経営内容も悪く、かろうじてアメリカ本社からの送金で食いつないでいる札付き会社であったのだ。しかし入社した以上、あまりあとを振り返らないで前向きに仕事に熱中することにした。売り上げ増加のための方策をどしどし進言し、改善を求めていったが、これらの進言や、がむしゃらに仕事する姿勢が、古くから在籍している社員にとって「生意気」な新入りと映ったようだ。筆者は入社ニカ月後のある日、突然日系二世杜長より解雇を告げられた。たったニカ月の在職で退職金100万円をもらった。

筆者はこの会社を紹介した人材紹介会社の副社長M氏に電話してみたが、驚いたことに、このM氏もそのニカ月の間に退職し連絡は取れなかった。ここで人材紹介会社の真の姿を見たように思った。このM氏はいま無認可の人材紹介会社を一人で営んでいる。

 

 

第6項より
「五回目の転職」


約一カ月の就職活動ののち、公募でアメリカ系電源装置メーカーへ、営業課長として入社することになった。

転職回数や年齢などから待遇面ではあまり無理を言えず、妥協せざるを得なかった。

入杜前のインタビューでは社員数七名とのことであったが、入社してみたら社員は五名になっており、退杜していった二名の営業マンのうち一名は解雇であった。また過去にも多くの杜員がクビになり、退社している事実が少しずつわかってきた。当初、実質的な営業マンは筆者一人であったが、その後二名入社してきた。

この頃には、さすがにタフな筆者も疲労が重なって、だんだん病気がちになっていった。しかしそれでも休みを取ることなく、とにかく頑張った。約一年間に業界の事情をほぼつかみ、競合メーカーの実力、戦略、市場性等を調査し、また日本中の代理店を訪問し、売り上げも次第に上昇し、これからという矢先、ある日突然、日本人の年下の社長から何の前ぶれもなく解雇通告を受けた。

たいした解雇理由はなかった。取るに足らぬ、ごく些細な理由であつた。どんな人間でもミスは必ず犯す。有能な人間はただ犯すミスの割合が少ないだけのことでありバリバリ仕事すればミスの絶対量は必ず多くなる。実績でなく減占全義で社員を評価し始めたら、民間企業も市役所県庁と同じレベルにまで下がってしまう。

しかし大企業になるほど減点評価がはびこり、社員のやる気を削いで社員を画一的にし、そして社畜化してゆく。日本市場になぐり込みをかけた小さな外資系企業では、とにかくガンガン前向きにセールス活動を行わねばならず、またその通り筆者は実行していったのだ。

しかし、少しずつ実績が上がってゆくにつれ、小心な社長の不安を買つたようだ。ここでも筆者のゴマスリ下手からマイナスの結果が出てしまった。

しかし、今度は決してこのままにするわけにはいかなかった。何としてでも解雇を撤回させて、奈落の底に向かっている人生を上向きに変える必要があった。筆者は弁護士と相談した。

 

 

第7項より
「法廷での争い」


 当初弁護士は、裁判にかかる費用や期間等を考えれば、不愉快なことは早く忘れ、新しい未来を切り開いてゆくよう助言してくれたが、筆者は妥協するわけにはいかなかった。最後まで徹底的にやり抜く覚悟であった。

 裁判が始まった。

 会社側には労働訴訟でいつも会社側に立つ専門の弁護士が二人付いた。また裁判官は三〇代半ばの女性裁判官で、外資系の会社の内情などわかりようもなかった。陳述書の交換、事情聴取等公判が進むにつれ、次第に会社側の有能な弁護士のぺースにはまっていった。
最初、資金にあまり余裕がなかったため、裁判扶助制度を利用し、安く弁護士に依頼することができたのだが、この弁護士はあまりやる気がなく、筆者の言うことに耳を貸そうともしなかった。筆者は思い切ってこの弁護士を解任し、日本共産党系といわれる弁護士に依頼した。何のことはない、弁護士の世界でも"安物買いの銭失い。の法則が遭用されていたのである。

 会社側は当初三人の現社員の陳述書を提出してきた。これには筆者の悪口がぎっしり書き込まれていた。ほとんど作り事であった。会社の社長から「書け」と命令され、自分のことだけ考え、簡単に「ウソ」を書いて提出してくる。これもまた一部の外資系の会社の節度のない社員の存在を示すものである。

 この頃の社員数は10名程度であったが、さすがにほかの七名の社員はこんな無節操なことはしなかった。あとで判明したことであるが、アメリカ本社の日本担当副社長がわざわざこの裁判のために来日し、直接社員に筆者の悪口を書くように指示したという。筆者はむしろ、この低レベルの会社にして七名もの社員が「ウソ」の陳述書を書いてこなかったことに驚きを覚えるほどだ。

 筆者側では、逆にこの会社にいた一年間に知り合った代理店や客先を訪問し、事情をとくと説明し、筆者のそれまでの仕事の内容やその他感想を書いてくれるようお願いしてまわった。そして、要請したほとんどすべてのみなさんが、筆者の苦境に理解を示し陳述書を書いて法廷に提出してくれたのである

 このときはさすがに涙が出るほどうれしかった。真っ暗闇の中で一縷の光明を見る思いがした。東京大学田無研究所の助教授O氏、日本電子株式会社の技術部長K氏、この会社と取引中の代理店であるにもかかわらず書いてくれた営業部長のM氏、さらには、この会社の製品を使用中の外資系MRIメーカーのエンジニアS氏らには心より感謝申し上げたい。

 筆者自身も、たとえ依頼しても、このようなトラブルには巻き込まれまいとして書いてはくれないだろうとあまり期待してはいなかったのだが、会社組織の中の利害関係がからまないところでは案外みなさん客観的に評価してくれており、こちらが真剣に要請すれば、それに誠実に対応してくれるものだと、つくづく感心したものである。ここでも、捨てる神あれば、拾ってくださる神様がちゃんと、いらしたのである。

 これらの陳述書は裁判官の心を動かしたようだった。負けそうになっていた裁判を一気に盛り返し、スタートからわずか八カ月の短い期間で裁判官の勧めで和解となったが、この間の賃金等を受け取ることができ、実質勝利を勝ち取った。さすがに嬉しかった。それまで奈落の底に向かっていた人生が急に上向き始めたように感じた。

 この裁判の直後、「ウソ」の陳述書を提出してきた社員三名は会社を辞めている。またこのあと、この会社の杜長は杜員を解雇することはなくなったと聞く。

 弁護士の話によると、この頃の地位保全の仮処分等の裁判の勝率は20%にも満たないとのことであったが、この20%の中に入ることができたのである。

 

 

第8項より
「人材コンサルタント会社との接触」


 不思議なことに、裁判が勝利に向かい始めたら、今度はどこから聞いてきたのか、ヘッドハンター2氏から、それぞれ別個に日系の理科学器械メーカーの取締役含みの企画部長、及びアメリカ系半導体製造装置メーカーの営業部長の話が飛び込んできた。

 何回かの面接ののち、この2社からはともに内定をいただいた。どちらからも強い入社の要請を受けたが、とくに日系メーカーのほうでは、正式な受諾前にもかかわらず英国人バイヤーの通訳を二回も行い、同時に接待までやるはめになってしまった。

 しかしながら、もうすぐ50歳という年のことも考え、筆者はここで冷静に自分の進むべき道を熟慮してみた。

 取締役であっても、所詮いつクビになるかわからぬサラリーマンである。筆者には転職回数が多い不利がどうしても付きまとう。

 しかし、筆者は多くの会社、業界を経験し、解雇も何回か食らい、裁判でも争った。また日系企業のみならず、ヨーロッパ系、アメリカ系の会社も経験し、それらの会社の長所、短所を肌で感じて知っている。それに激しいビジネス経験を異なる業界、会社で積んでいる。これらの多くの経験を逆に生かせる職業はないか、と考えてみた。いまの日本社会では、企業の経営者もサラリーマンも、まだまだ自分の考え方一つにしても定まらない、いわば暗中模索の中でただ蠢いているようにも思える。筆者のいままでの奈落の底から這い上がってきた経験から、これからの人材流動化の世の中で、転職経験のない、あるいは少ない人々に何かしらのアドバイスを提供できるのではないかと少しずつ考え始めていた。

 このようなとき、ある英字新聞に人材コンサルタント募集の広告を見て応募してみることにした。そして三回のインタビューののち、採用となった。同時に内定をもらっていた2社の方は、丁寧にお断りした。

 

 

第9項より
「人材コンサルタントとしてスタート」


 筆者の入社した人材コンサルタント会社は、日本で数番目に開業した老舗で、すでに十数年の歴史のある会社であった。人材コンサルタントは七名でヘッドハンティング主体の、アメリカ人副杜長W氏をトップにいただく小さな会社である。

 業績は悪く、やたらと人材コンサルタントが退職か解雇になる会社でもあった。簡単にクビになる会杜のヘッドハンターでは、真の人材コンサルタントとして、まじめに他人のことをよく考えたスカウトをやるはずもない。

 このような会社には長居は無用だ。できるだけ多くのノウハウを短い期間に吸収し独立あるのみである。当初、数年くらいかけて人材コンサルタントとしてのノウハウを学ぶ予定でいたが、大幅に縮めることにした。

 数カ月の勤務ののち、会社を退社する決意をし、まずそれまで短い期間であったが、お世話になったクライアントの人事部長に独立の挨拶にいった。

 たいていの人事部長からは短い付き合いにもかかわらず「頑張ってください。微力ながら応援しましょう」と励ましの言葉をいただいた。このときもうれしかった。独立への不安が少しは和らいだように感じ、力がわいてきた。

 ところが、最後にヨーロッパ系金融関連企業の人事マネージャーであるフランス人F氏に電話で独立のことを伝えたのであるが、筆者も、他の日本人人事部長の励ましの言葉に、つい注意が散漫になっていたのであろう。助力をお願いし帰社したところ、アメリカ人副社長W氏に呼ばれ「F氏から電話があった。近々独立するのであろう。それならクビだ」と告げられた。

 この事実は、日本にいる欧米人の日本人に対する見下げた「見識」をそのまま表しているようにも思う。

 別にクビにならなくても翌日には辞表を出すつもりでいたのだ。そう出るならば、こちらも法に従う形で解雇予告手当の支払いを要求した。そのおかげでもらう予定のなかった一カ月分の解雇予告手当をもらい、普通に辞めれば、やらねばならない引き継ぎもやることなしに、悠々独立することとなった。

 

 

第10項より
「自分の転職を振り返って」


 自分の転職を振り返ってみて、よくぞここまでこられたものと思う。

 再度同じ様な経験をしようとは決して思わないし、思い出しただけで身震いがする。

 しかし、現在人材コンサルタントとして活動する中で、これらの多くの転職の経験を、これから転職しようとする人々に対し、 アドバイスとして極めて有効に活用しているつもりである。

 一通り、多くのサラリーマン諸氏が経験されることを、コマの早送りで経験してきた感じもする。失業しているときは安定した仕事、 職場の重要性がつくづく認識された。転職などもうコリゴリと幾度となく思った。しかしいま、自分の経験を通してみると、それぞれに 非常によい経験をしてきたとも思える。

 最初の大手光学器械メーカーへの転職のとき採用通知を受け取ったあと、幾度となく転職をやめようかとも思った。安定ということを 考えれば転職しなかったほうがよかったであろう。転職して精神分裂症の一歩手前の心身症にまでなることはなかったであろう。しかし 長い目で見れば、転職を何回か繰り返してきたほうが、結果的には多くの苦しみはあってもはるかによかったと思う。

 転職を乗り越えていく過程は、自分自身の成長につながる。なぜなら、逆境を乗り越えようと努力することが、 自然と自分自身の反省へとつながるからである。

 学校を卒業し、一社のみに一生在籍し、サラリーマン生活を終えられた方で筆者のいままでの経験と比較し、自分の方が「より幸福である」 と実感される方がどれくらいおられることであろうか。

 筆者は定年退職まで一社のみに勤務される方は、口はばったい言い方になるが「井の中の蛙のままでかわいそうに」とさえ思う。

 これからも人材流動化の波は、少しずつ確実に大きくなってゆくであろう。

 人々の転職回数が増してゆくことは、中途採用者への差別意識が少なくなり、中途採用者を客観的に正当に、その実力、実績で評価する時代 に近づけるであろう。このことは日本人の偏狭なムラ社会、差別意識を少しずつ壊し、権力者にただ追従するだけでなく、自分自身の意志、意見を 持ち、かつ主張する国民に脱皮していくことにつながるのではないかと期待している。

 


第一章 転職の世界とヘッドハンテイィング 第二章 インターネットによる転職
第三章 転職に成功する為のノウハウ 第四章 外資系企業の実績分析と転職
第五章 転職の世界で見る日本人の真の姿

第六章 七転び八起きの筆者の転職奮闘記

第七章 男一匹、一時は企業家を目指せ! あとがき
転職成功者からの手紙  

 

 
 
 
 
 
 
 
   
 

 

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